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 「子供の頃の遊び、どんな遊びをしていたか」No.2 (2012/10/01登録)(10/04追加)(10/07追加)(12/24追加)

 この雑談に下記を寄せていただきました。
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 子供の頃の遊びについて女性の立場から一筆寄せさせていただきます。
                                       D組 M.M

  私が好きだった子供の頃の遊びは、缶けり、ゴム飛び、石けり、丸描き、鬼ごっこ、はないちもんめ、
 後ろの正面だ〜れ、ハンカチ落とし、馬跳び、だるまさんが転んだ…きっと同じ時代を過ごした皆さん
 も、同じように遊んだことでしょう。

  また、別所小学校から坂を下ると、当時は一面の田んぼで、そこでの早春の芹摘みは、親孝行な(…)
 私にとって楽しみの一つでした。従兄弟・姉妹たちと猟犬を遊ばせながら、袋が、芹でだんだんにいっ
 ぱいになっていくのが好きでした。一緒に行くと、すぐ飽きてしまう男の従兄弟たちと違い、夕飯のお
 かずの足しにしようと、一生懸命に摘んだものです。
 
  夏の遊びは一本杉の沼でのザリガニ釣り…
 近くにいるカエルを取って、地面に叩きつけて(あの頃はそんなに酷いこととも思わずに)皮を剥ぎ、
 竹の棒に垂らした紐に括って、ザリガニの餌にしたものでした。ザリガニは面白いように釣れたもので
 す。今は別所公民館となった、一本杉の沼の脇の畑には、里いもの葉が、青々と茂っており、その葉蔭
 に基地を作り、日がな一日釣りをしたり草遊びをしたり。ただただ楽しい毎日でした。

  秋は稲穂の笠懸をたたきながら、飛び出して来るイナゴを捕まえるのに夢中になったものです。炒っ
 て甘辛く味付けしたイナゴはカルシウムがあるからと、母に言われたものの、好きではありませんでし
 たが。

  また、以前どなたかが書かれたように、植木ガラスで欠けたレンズを拾って来る、ただそれだけで嬉
 しかったり、関東レザーでレザーの端切れを拾ってきたりするのも遊びのうちでしたでしょう。

  また、よくあの頃は小学校の門前で、子供相手の物売りの人が店を開き、何か売っていたような気が
 します。その中でも、ヒヨコは思い出深いものです。親に飼い方を教わり、箱を用意し、電気スタンド
 を中に入れ、ヒヨコが寒くないように電気を付けて、温めて育てたものです。餌のハコベ等の草を取り
 に行く仕事が増えましたが、薪での風呂焚きとならんで私の遊びのようなものでありました。最後には
 鶏鍋にして食べてしまったのですが。

  また、家では、空気銃で、五重丸を書いた木を的にして、従兄弟たちと競争して、当てて遊びました。
 うまく当たった時は嬉しかったものです。大人になってからも、十二日町等の縁日で、銃の的宛てで景
 品を当てるのは得意で、子供が中学の頃、役員となり、補導のため一緒に見回った役員の友人に、的を
 当てて見せて、驚かれたのも懐かしい思い出です。

  冬の猟の解禁となると、今度は猟銃(散弾銃)を持って、父に連れられて、寒い北風が吹く野山を彷
 徨したものです。猟銃は撃った時の反動が凄く、肩にうまく銃の台尻をあてて支えないと、良くあざが
 出来ました。父が撃ってきた鴨や鳩は、熱湯をかけて羽をむしりローストして食べましたが、脂身の少
 ない鳩より、鴨の方が一段と美味しいものでした。調理の様子を見るとかわいそうで食欲も落ちたもの
 ではありますが…

  戦後間もなくだった為でもあるのでしょう。今の子どもたちより原始的な遊びと生活だったかもしれ
 ませんね。


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 (大感謝)
 (引き続き、情報大募集!)

 2012/10/04
      一本杉の沼 G・萩原

 M・Mさんの遊び体験、楽しく読みました。
 のどかに始まって、お仕舞いには散弾銃が出てくるんだから…もう、冒険小説。
 登場する遊びの、道具や場所や友達それぞれへのいとしさが「スタンド・バイ・ミー」の世界。
  ※「一本杉の沼」、もっと知りたい。
 

 2012/10/7  D 石川和

 TT君、MMさん共驚くべき記憶力で、3日前何を食べたかも思い出せない
 者にとっては羨ましい限りです。詳細部分が朧になっている言い訳をすれば、父親が
 転勤族で遊ぶ仲間が何度か変わった為かも知れません。

 6年の夏休みに別小に転校するまでの4年間は北海道で過ごしました。遊びは同様でしたが、
 長い冬の間は社宅の前の牧草地で毎日のようにスキーをしたり、馬そりが通って固く凍った道路
 でスケートの真似事をしていました。後年ニューヨーク勤務時代、家の裏の川が凍結(零下20度
 になる)した天然リンクに週末長女を連れて行きましたが何とか滑る事ができました。

 白中では2年の1学期に父親の勤務先の社宅が完成した為、別所の借上社宅から針ヶ
 谷に移り、以後バス通学となって下校時県庁下(蔵王の前辺り)で友人達と別れた後
 は、遊ぶ機会が一段と少なくなってしまいました。

 因みに私も転勤族となり、結婚後13回引越しました。
 但し、海外との往復で6回、現地転居が3回あり、日本では昭和53年
 から殆ど同じ所に住んでいるので、ここを離れ親となった娘達も幼馴染との連絡を続け
 ており、幼い頃の遊びの記憶を保っているようです。


 2012/10/7 F T.T

 先日、元キャンディーズの伊藤蘭が、吉祥寺近辺で地グモを採って遊んだと言ってましたが、
 そんなのもやりましたね。
 
 家の土台の石のところなどに、長細い地グモの巣の上の数センチだけ出ていて、
 それを引っ張り揚げて、(クモが)「いたいた」とか、「逃げられた」とか、
 (巣が)「切れてしまった」とか言うだけの遊びでしたが。


 2012/12/24

  遊びではないが...

  ごく小さな頃、別所の奥から駅近辺へ行くのは、
  週に1度程度の買出しであり、「街へ行く」ことでした。

  それには、歩いて行くか、加藤清酒店の停留場から市内循環バス
  に乗るのですが、子供の時間感覚では永遠に待ったように感じました。
  しかも、左廻りが、なかなか来ないので、右廻りに乗ると北浦和経由です。

  街に行くと新鮮なものが手に入り、
  「中銀座で買って来たさつま揚げ、まだあったかいから、そのまま食べられるよ。」
  といった会話があったものです。

  浦和劇場の近所の尾張屋での布の切り売りでは、ハサミを動かすだけで切るのに、 びっくりしたり、
  帰りには岡野で小倉アイスや、山口屋で何か食べたりし、帰りにもらえるサイコロキャラメル
  が楽しみでしたが、店員が忘れた時などがっかりしたものでした。

  後日、庶民にも自転車が普及してから、街も近くなったものです。

  また、中学の頃か、市高でクラマーさんを招いてNHKでサッカー教室をやったことがありますが、
  その解説が後の岡野サッカー協会会長でしたが、
  あの岡野と関係があると知ったのはずっと後でした。