同期会準備会での雑談:
「左右の人差し指を口に入れて、左右に広げて言葉を発したのを覚えているか。
それは、「金沢文庫」だったか「学級文庫」だったか。
「金沢文庫」だとしたら、何故浦和で。
情報募集!」
この雑談に(G)寛ちゃんが反応、
「似たような“遊び”で、しみずみえこ、おくのみえこ、なかの・・・など。」
と言っていたとの事、品の有る今の寛ちゃんから想像できないという面白さがあるのか。
そして、この雑談を広げるのか、広がるのかですが、
試みとして...
子供の頃、どんな遊びをしたか、(浦和中西部のごく小集団の場合)
小学校就学前、よって、行動範囲はごく狭く、ほんの10数世帯の同年代、
従ってそこには、後の同学年生さえ居ないほどですが、子供にとっては1つの国であった。
3つ年上のガキ大将と、子分3,4名ほどの小国でした。
そこでの遊びは、
「だるまさんがころんだ」「かくれんぼ」、「缶蹴り」
等、一般的な遊びは勿論で、独特と思われるものとしては、
「ポコペン」:これも一般的かと思うのですが、そのガキ大将は、だれが頭を突いたかを、手相で必ず当てた。
よって、鬼になったことは、1度もない。
当時、目を開いているのでは、手相の見せ方で分かるとか、子供なりにいろいろ考えましたが、
未だに真相は分からずです。
「お国はニッポン」、「ムニャムニャ」:このように言っていたが、正式名称は分かりません。
2チームに分かれて、1チームが、あるお題の芝居をしゃべらずに行う。
(後のジェスチャーのようなものだが、当時ジェスチャーもテレビも一般に無かった。)
お題を当てられたら一斉に逃げ、捕まったら相手のチームの一員になるというもの。
ここで後世に残る名作のお題は、「バダモドダイグヅオドゴ」(旗本退屈男をもじって、全てに濁点をつけたもの)で、
決して正解されることの無かった名作です。
その他には、
・よく大将の自転車の後ろに乗って、領地内外を行き来してました。ポイント地点として、
ブレーキを掛け遅れると田んぼに突っ込む坂道とか、わだちで出来たスウィッチバック等がありました。
大将の自転車は、ノーパンクと称しチューブが無い為、決してパンクをしないし、空気を入れる手間のないものでした。
・古いオート3輪(多分、S塗装店から貰ってきたもの)の後ろに乗せてもらい、大将の家の庭を何周もしていました。
・柔道の巴投げを時々掛けられました。その時は世界が1回転するので喜んだものです。
・喧嘩の仕方も習いました。整列して、「点呼」と言われると、「ブ」、「ピ」、「ス」、「パ」、「以上4名」
といった具合で、習った手は、今で思えば多分、「二丁投げ」と「かんぬき」で、弱い子分でも型にはまると、
強い者を倒せるものです。
・漢文も習いました。読書百篇意自ずと通ずということで、「少年老い易く、学成り難し....」と暗唱させられました。
家に帰って、父母や祖父母に聞かせたら、どこで習ってきたと驚いてました。
大将は我々の英雄であり、自身では、子供会や、青物市場まで遠征に行って、ベーゴマなどをやってました。
当時は気が付かなかったが、子分の安全を考慮したり、面倒見も良かったと思われます。
1日入学の日、受付の先生の後ろに立っていて、先生より先に、名札を渡してくれ、先生を驚かせました。
大将が入学後に、親に「いつまでもガキと遊んでいるんじゃない」と怒られ、それぞれが立場のない思いをした覚えがあります。
大将が小学校で出世して疎遠になってからは、我が小国は統一のない状況となったと思われます。
自分も入学後に、上級生となった大将が算盤、書道、作文等対外的に大活躍しているのを知りました。
臨海学校へ行くので将棋の駒を貸してくれと言うことで貸し、1,2枚手書きの駒が戻ってきましたが、将来のプロ棋士に将棋の駒を貸したのは、
密かな誇りです。
私自身が入学後は、学校での遊びが中心で、帰ってからは、算盤塾へ行く道での呼び鈴のピンポンダッシュよくやりました。
それに夜道がやたら暗く、ナショナル懐中電灯を付けないと、恐くて自転車に乗れないほどで、もっと明るい発電式が
欲しくてたまりませんでした。
算盤塾では、各国からの人々が居て、岸町国、鹿手袋国、土合国、仲町国などの有ることを知りましたが、
岸町国のまぼろしの女王の設楽さんと中学で、仲町国の磯部大天才と高校でおめもじできるなど、夢にも思いませんでした。
さて皆さんの国ではどんな遊びをしてたのでしょう。
情報大募集!
F, T.T
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